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京子の部屋


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 風呂から上がって素っ裸のまま、松井京子はソファに大判のバスタオルを掛けると、その上に腰を下ろした。
 右手に缶ビール、左手にはコンビニのサラダ。
 窓の外では、街路樹が木枯らしに吹かれて凍えそうに吹き流されている。

 全身を脱力してソファに身を預け、せつない気持ちをもてあましながら心臓の鼓動に神経を集中すると、また胸が締め付けられるように痛くなってくるのだった。

 そのままじっとしていると、真夜中の静寂がじんわりと心の中に入りこんで耐えられなくなり、京子は手を伸ばしてCDの再生ボタンを押した。

 ディスクが回転する小さな音がして、それから数秒間の静寂のあと、まるで鏡のように静まりかえった水面にしずくが三滴、絶妙の間をもって落ちてきたようにその曲は始まった。

 ピアノのビル・エバンスとベースのポール・チェンバース。

 最初の三滴が作った同心円状の波がまだ消えないうちに次の三滴が水面に。 そうして複雑な文様を描きながらさらに数滴が零れ落ちるかのようにピアノとベースが絡まりあってゆく。
 そのあとで、ベースの有名なイントロが始まるのである。

 京子は荒っぽくビールを喉に流し込み、「ふぅ〜〜」 と大きく深呼吸した。

 せつないときにはこの曲だ。

 マイルスディビスのアルバム「カインド・オブ・ブルー」。
 ベースのイントロを追いかけてマイルスの乾いたトランペットのソロが始まると、京子の脳裏には今さっき目撃したばかりの光景が思い出されるのだった。

*  *  *

 そのとき京子は、会社から駅に通じる大通りの人ごみの中を歩いていたのである。

 金曜日の夜八時の路上は、これから週末を楽しむ人々でごった返しており、立ち並ぶ店なみも、異様な活気を見せていた。

 歩道の中ほどに立って客引きをしているスナックの女性たち、派手なネオンサインの前に立って呼び込みの大声を張り上げているおじさん、暗がりでひそひそ話しているイラン人。

 京子が道端のワゴンに積まれたCDのタイトルを目で追っていると、すぐ横の小さな路地から、一組の男女が小動物のような素早さで現れ、京子の横をすり抜けたのだった。

 人ごみの中の一瞬の後姿に、特に男性の後姿に、その人が誰なのか理性が認識するはるか前のほんの数分の一秒で京子の感覚が素早く反応したのである。 
 とても暖かく懐かしい、いつも目で追いかけているその後姿。

 それは同じオフィスの笹川弘一だった。
 横を歩いているのは皆川まゆみらしい。

 京子はとっさにワゴンの後ろに身を隠して二人の姿を目で追いかけた。

 皆川は、背の高い弘一を下から見上げる格好で並んで歩いている。

 雑踏の中を見え隠れしながら遠ざかってゆく二人の後姿をながめていると、京子は後ろめたい気持ちを感じながらも、後をつけて行きたいという欲求に逆らうことができなくなった。

 二人の姿は人ごみに見え隠れし、付いてゆくのはたやすかったのである。

 大通りの中にいると、たまたま偶然に同じ方向に歩いているだけなのだ、という言い訳の安心感から気ままに歩いてゆけるのだが、二人が大通りを外れて狭い路地に入り込むと、さすがに京子もこちらの気配を悟られないように注意をする必要があり、そのように物陰に隠れてこそこそ後をつける様子が自分でも情けなく、いっそ先回りして偶然出会ったかのように二人を驚かせてやろうかとも思うのだった。

 そうだよ。 私にはそうして弘一を非難するだけの理由があるのだ。

 しかしその考えを実行に移す前に、二人は薄暗く小さな入り口から、とあるビルに入っていったのである。
 そのビルの屋上には、不釣合いに大きなネオンサインの文字で「ホテルラフォーネ」と書いてあった。

 京子はしばらくの間その場に立ちすくんで冬の冷たい風に吹かれていたのだが、それからうつむいてゆっくりと帰途についた。


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 右手に持ったビールがなくなる頃、ソロはマイルスからキャノンボール・アダレイに代わっていた。

 ちょっとボリューム高すぎるかな。
 まあいいや。

 恋人に裏切られた重苦しい気持ちで放心したようにソファに腰掛けて、京子は二つ目の缶ビールを開け、やけくそに喉に流し込んだ。

 笹川弘一は、京子が入社して以来、なにかと面倒を看てくれた主任なのだった。

 ある日、京子が大量の書類に囲まれて夜9時過ぎまで残業していたとき、気が付くとオフィスのフロアは京子と笹川だけになっていた。

 あれ。 まだ仕事してる。
 たしか二時間ほど前に課長に呼ばれて、明日までに新規の見積もりを書いてくれと言われていたっけ。 

 パソコンのモニタに隠れて笹川の顔は見えなかったが、黙々と書類を作っている様子だった。

「笹川さん。 こっちはもう終わりましたけど、何かお手伝いすることはありますか。」
と京子が声を張り上げると、

「こっちももうすぐ終わるよ。ありがとう」 とモニタの陰から返事が返ってきた。

 その後で、モニタから少しだけ顔をのぞかせ、

「さっきから僕のおなかがぐーぐー鳴ってるの聞こえてた?」 と笑いかけてきた。

 たとえ同じオフィスの隣同士のデスクに座っていたとしても、男女がお互いにプライベートな会話をする機会はほとんど無いものである。

 京子にしてみると、いつもそつなく仕事をこなす、その意味ではとてもスマートに見える笹川と二人きりなので、少なからず興味はあったのである。

 二人はオフィスを出ると、駅前の歓楽街に向かって歩き出した。

「食うのと飲むのと、どっちがいいかね」

 笹川が言うと、

「笹川さんは当然飲むほうがいいんでしょ。」
「もし付き合ってくれるなら、当然そっちがいいね。」

 電車の線路沿いには、こんな急な思い付きにでもすぐにこたえてくれる店が何件もあって、笹川は別段考え込むこともなく、美味しい料理と酒があり、そんなに高くない店をすぐに思い浮かべることが出来た。

 その店は大通りに面したビルの六階なのだが、雑居ビルの六階とは思えないような凝った和風の作りになっており、エレベータを降りたとたんに木造の別世界に入り込んだようだった。

 中はカウンターが中心の、ごく普通の炉辺焼きになっていた。

「うわ。アベックばっかりですね〜」

 店の中を見回して、京子が小声で言った。

 コの字型にせり出したカウンターは、サラリーマン風のアベックでいっぱいだった。

 そんな中に二人で座ると、別段恋人同士でもないのに恋人になったような気分にさせられる。

「ここのもつ煮込みが最高なんだよね^^」

 と笹川は言うと、お互いのビールジョッキをぶつけて乾杯した。


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 外回りの仕事を終えて、笹川弘一はK駅の東口改札前のコンクリートの柱の横に立っていた。
 電車が到着するたびに、改札から吐き出された人の流れが弘一の横を通り過ぎる。

 弘一は、少し早めに待ち合わせ場所に着いて、そうして人の流れるのを眺めながら京子がやってくるのをのんびりと待つのが好きなのだった。

 7年ほど前に結婚して、その後めまぐるしく仕事に追いかけられて暮らしていた弘一は、今自分の胸がときめいているのに多少驚きながら、こんな気持ちは久しぶりだな。と思っていた。

 京子が入社して以来、他の人とはっきり違う京子の感性に感心して遠くから眺めていたのが、プライベートに話をするようになってからますます惹かれるようになった。
 こうして待っていれば、いつかは彼女が現れると思うと、待つことも全然苦痛じゃない。

 会っても仕事の話がほとんどだけれど、会社の先輩が後輩の相談にのってあげているという関係は、さして後ろめたさも感じない。

 何度目かの電車が通り過ぎたあと、京子が右側の階段から小走りに現れ、
 そうして正面の踊り場で立ち止まると、くるんとあたりを見回した。
 弘一を見つけると、笑顔でまっすぐに弘一のそばにやってきた。

「ごめんなさい。部長がなかなか帰してくれなくて。」

「お疲れ様。おなか空いてるだろ。」

「うん。 まずビール。」

 二人きりで食事するようになって3回目だったか。
 その日はチェーンの居酒屋に入った。

「わたしの晩御飯に付き合ってくれてうれしいな。
     でも、遅くなると奥さん怒るんじゃないですか。」

「いや。毎日遅いから。もう俺の晩飯作らなくなってるんだよ。」

「大変ですね。営業。」

「そそ。お客と酒飲むのが仕事みたいなもんだからさ。
     今日みたいなのはほんと楽しいよ。」

 とレモンサワーのグラスをぐいと空けて、

「俺なんかに付き合ってくれて嬉しいけど、松井さん彼氏いないの?」

「いませんよ〜。
 毎日部長に残業させられて、彼氏作るヒマないんです。」

 弘一はうつむいた京子の横顔を眺めて、今度は兄か父のような気持ちになった。

「誰かいいやつ紹介しようか。3課の篠崎なんかどう?」

「‥‥そんなこと言わないで下さい。」

「そうだな。余計なお世話だよね。
     松井さんは素敵だから。」



 外に出ると、閑散とした歩道を冷たい風が吹き抜けていた。
 ほんのり酔った体にひときわ寒さがしみて、両手をコートのポケットに深く差し込み、背中を丸めて並んで歩いた。

「うわ。寒いね」

「お酒飲むとかえって寒いですね〜」

 と言いながら、京子は人一人分くらいの距離を空けて弘一の左を並んで歩いている。

 交差点に差し掛かったとき、右に曲がろうとした京子と左に曲がろうとした弘一の体がぶつかって、京子が少しよろけた。

「ごめん。松井さんこっちだっけ。」

 と弘一が京子の左腕を支えると、その顔を京子が下から見上げた。

 弘一は京子の目を見つめてから、静かに肩を引き寄せて、それからぎゅっと背中を抱きしめた。

 弘一の胸のあたりに押し付けられていた京子の顔がくるしそうに上を向いたとき、弘一は思わず唇を重ねてしまった。

 京子の唇はあたたかく柔らかで、少し震えていた。

 そのときの弘一の気持ちを正直に言うと、
 しまった。やっちゃった。

 と思っていたのである。

しかし、京子を抱きしめてキスした。

 その事実を大切に胸に入れておけば、たとえこれから先京子に会うことができなくなっても、その記憶だけで心温かく生きていけるような、そんな気持ちでいた。

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 弘一はもう少しの間だけ京子を抱きしめていたかったが、京子のほうから体を離して、

「ごめんなさい。わたし‥‥」

 と言った。

 弘一も手を離して、
「謝ることないよ嬉しいよ。
     松井さんのこと好きだから。」

 と言うと、京子はうつむいたままゆっくりと、

「‥‥ウソだな。」

 とつぶやいた。

 弘一は思いがけない京子の言葉にたじろいで、
 違うよ。ずっと前から好きだったんだよ。

 と言いたかったが声に出せずにいると、
 京子は今度は笑顔で上を向き、

「でもいいの。一緒にいられれば。」

 と言ってもう一度体を寄せてきた。

 抱き合った二人の横を、車のヘッドライトが何台も通り過ぎた。

 弘一は京子の右手を取って自分のコートのポケットに押し込み、並んで歩きながら、

「今日は帰したくないな。」

と言った。

京子は、

「えーー。だめですよ。
     ちゃんとうちに帰ってください。」

「もう電車無いよ。俺んち遠いから。」

「あぁ‥そうなの。
     あたしってこんな遅くまで引き止めて嫌な女。
     じゃ二人で漫画喫茶行きましょう。
     わたし始発まで一緒にいますから。」

「そんなことで寝たら風邪ひいちゃうよ。」

 しばらく無言で歩いてから、弘一は路地の入り口からビルの中に入った。

 赤い絨毯を歩いて、ランプが点滅している部屋のドアにキーを差し込み、弘一が先に入ると、京子は入り口に立ち止まり、そうして小さな声で、

「あぁ。入ってきちゃった。」

 と言った。


*  *  *


 枕元の時計は午前3時を回っていた。

 そばで寝息をたてている京子の顔を眺めていると、その目がふと開いて、

「‥‥笹川さん、寝ないんですか?」

 と言った。

「うん。
     寝るのがもったいなくて。
     でも、もう寝るよ。」

「なんか不思議。笹川さんがこんなところにいる。」

「俺とこういうふうになっちゃって、後悔してない?」

「ぜんぜん。
     いつも会社で遠くから見てたの知ってました?」

 いつも遠くから見ていたのは俺のほうだよ。

 でも、既婚者なので人に悟られるわけにはいかないのさ。

 いや。会社の規則とか道徳を言っているのではないんだ。

 一人の人を心から想っているときには、愛があれば誰となにをしてもいいように思ってしまう。

 既婚だからなんだっていうんだ。

 いまこの瞬間にこの人を愛しているということを行動に移せないなら、人を好きになんかならないほうがいい。

 しかし、何度か恋愛を経験すると、その先には、「いつまで続けられるだろう」という閉塞した状態がやってくることを知っている。

 どんなに熱い想いも、やがて嫉妬や疑いで心が引きちぎられるような苦しみに侵され、やがては冷めていくのだろうと知っている。

 こんなに苦しむならもう恋愛なんかしなくていい。
 と何度も思っていたはずだ。

 しかしそんな人生の波風がいったいどれほどの苦痛なのだろう。

 楽しさが大きいほど苦しさも大きい。と、当たり前のことを言っているだけではないか。
 麻酔で寝かされた人は苦しみも感じない代わりに楽しみも感じないはずだ。

 弘一は、今日この瞬間から、京子を愛しながら暮らそうと心に決めた。

 京子はまた目を閉じて、小さな寝息をたてていた。



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 ミラー・ボールが回転しながらゆっくりと下りてきた。

 レーザー光の色とりどりの光の粒が、壁に沿ってゆっくりと回転を始めた。

 ステージでは、音量を極力抑えてBGMに徹しているバンドが今夜何回目かの演奏を始めたところである。

 ピアノが1小節目を弾き始めるとすぐにそれとわかる特徴のあるバース。

 曲はホーギー・カーマイケルのスター・ダスト。

 京子は注文したシーバスのオンザロックシングルから氷を何個か取り出して灰皿に棄てると、チェイサーの水で少しずつ薄めては味見をし、自分用のほどよい濃さにすることに熱中していたが、サックスがリフレインを吹きだすと、思わず手を止めて演奏に聴き入った。

 感情を込めすぎると甘くなりすぎていやらしいし、クールに流しても味気なく、なかなか程よい加減に歌うのは難しい。
 たいていは演奏者の思い入れが強すぎて甘ったるい演奏になることが多いのだが、今夜の歌い方は甘さと冷たさがちょうどよいバランスで、京子の気持ちにぴったりだったので驚いたのである。

 リフレイン導入部の3音。♪Sometimes I wonder 〜 で決まるんだよな。
 ちょっと離れるけど、最初の出音で決まるとこはベートーベンの第5番。運命の出だしみたい。

 ステージを見ると、テナーサックスがミラーボールのレーザー光を反射して周期的に色を変えていた。

 ほほに手を当ててもの悲しいメロディーに聴き入っていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。

「おまたせ」
 篠原真理子が京子の目の前に腕の時計を差し出して笑って言った。

「ものすごい遅刻してごめんごめん。」

「あ。まりこ。」

 篠原真理子は京子と同じ会社の一年後輩だったのだが、結婚退職と称して去年の暮れに退社して以来、べつに結婚するわけでもなく、フリーターとしてぶらぶらしているのだった。

 そのことを指摘されると、

「私は自由だし、収入だって前より多いくらいなんだから。」

 堅い会社に勤めていて息が詰まりそうな毎日を暮らしたり、一人の男のために一生家政婦をやるつもりもないのよ。
 と、こんなふうである。
 京子と同じ会社に勤めていた頃でも、社内の不倫や恋愛は1人2人じゃない。

「まりこはほんと。男を切らしたことないもんね。」

「あはは。私は自分の気持ちに正直なだけよ。」

「そんなたくさんの人と付き合って、彼氏がかちあったりしないの?」

「私は付き合っているときは1回に一人なの。」

 だってね。
「たとえ彼が妻子持ちでも独身でも、その人と向き合っているときは、お互いに信じあえる正直な関係でいたいのよ。」

「でもそれじゃ妻子持ちの彼が二人の女を相手にしていて、正直じゃないじゃない。」

「そこが難しいんだよね。時々彼を独り占めしたくなるしさ。」

 真理子はそう言ったあと、その瞬間に目の前に落ちてきたブルーな気持ちを振り払うようにカウンターに向き直り、マスターに「私モスコミュール」と言った。

 不倫なんかしていても、楽しいことなんかほんの少ししかなくて、あとは哀しいことばっかりだからね。
 もう私はいいかな。

 とずいぶん前に真理子が言っていた気がする。

 社内に二人の関係がばれて、彼が地方に左遷されたり、自分自身も毎日好奇の視線に晒されたりしていたときで、
 なんで人間の女だけ、いろんな人に恋すると不道徳って言われるんだろうね。
 ネコなんか今年は今年の恋をして子供を作って、来年はまた違う人と恋してるじゃない。
 
 私の経験では、恋愛には絶対賞味期限があるよ。きっと私達の体にもほかの動物と同じように、何ヶ月か何年かで別の人に恋しなさいっていうタイマーが仕込んであるはずよ。
 それが出来ないのは、人間の子供が育つまでに10年以上かかるからじゃないのかな。
 
 ネコみたいな恋をしていると、育てられない子がたくさんできちゃうもんね。
 だから、子供をつくらなければ何人としてもいいのよ。

 などと無茶なことを言う。


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 ところでその日は篠原真理子からの誘いだったのである。

「矢野ちゃんどうしてる?」

 二人が一緒に仕事をしていた頃の上司だった矢野部長は、一歩間違うと「病的な‥」と言いたくなるほど神経質な性格で、たとえば自分の机の上の事務用品一つ一つが全て机のふちと直角をなしていなければ気がすまない。 そんな人間だった。

 日常生活の全てが杓子定規なので、真理子はほとんど全くといっていいほど相手にされていなかったが、京子は絶大な信頼の元に部長から無理難題を丸投げされ、しかもそれらをてきぱきと片付けていくのである。 そのことが、いつも真理子を驚かせるのだった。

「部長? 相変わらずよ」

「京子さんはすごいよ。私がもし京子さんだったら、あんな会社とっくに辞めて議員の秘書にでもなってるわ。」

「そんなことないよ。 今でも大変なんだから。」 とナッツを一つ、口に放り込んでから、
「そういえば、まりこ。矢野部長となんかあったんでしょ。」
 と京子が言うと、

「う〜ん。 あったっていうのかな。 ちょっと私が寂しいときに、
‥つい出来心で‥1回だけキスした。」
 と屈託なく笑った。

「それがね。 私先月からスナックでバイトしてるのよ。」

「ふん」

「そこに偶然矢野ちゃんが来たのよね。」

「えーー。」

「それで、それからメールと電話が大変なの。」

「携帯番号教えちゃったの?」

「携帯は大丈夫。 でも私のうちの固定電話が会社時代と同じだから。 パソコンのアドレスも。」

「ふーーん。 あの部長がね〜。」
面白そうね。

と京子が言うと、

「止めてよ〜。 あの几帳面さで攻撃されたら、もうストーカーだよ。」

 だからさ、あんまりしつこくしたら、京子さんに言うよ。って言ってやるけどいい?

 と言うのだった。 
 そうして、

 私がいろんな男の人とうわさがあったから、軽い女と思ってそんなふうにしつこくしてくると思うんだ。
 なめてるよね。

 メールで、「今でも愛してるよ」なんて書いてくるのよ。
 「いまでもやりたいよ」って書けばいいじゃないね。

「(笑)まりこ。」

「おっと。 じゃ小さな声で‥。
     京子さんは身持ちがよさげにしゃんとしてるから、そんなばかが言い寄ってきたりしないでしょ。」

「そんなことないよ〜。 私は関心の無い人には、自分に近寄らないで。 オーラを出すから。 かな」

「京子さんそうだよね。
    私は身近な人をすぐ好きになっちゃうから。 
    でも付き合いだすと、なんだか自分が本当に好きな人じゃない気がしてきて。
    ‥長続きしないんだよね。」

「本当に好きな人なんて、探していたら一生見つからないとおもうけどな。」

「うーーん。そうなのかな〜。」

 でも、他にもっといい男がいそうでさ。
 と真理子はいたずらっぽく笑いながら言った。

「ところで笹川主任は元気?」

「笹川さん。 ‥元気みたいよ。」
 京子はなんとなく手元に視線を落とした。

 真理子はそれ以上追及しなかった。


 外に出て真理子と別れると、冷たい空気が京子の体温を急激に奪った。

 電車の椅子に揺られて遠くの高層ビルの窓の明かりを見ていると、ポケットの中で携帯のバイブレータが振動するのだった。
 京子はディスプレイに表示された「着信あり」の文字を見つめると、急に息苦しくなるような緊張感を覚えて、ゆっくりと伝言の再生ボタンを押した。

 伝言には男の声で、

「もしもし。 ‥笹川です。 話をしたかったけど、また電話します。」

 と言って切れた。

 少し酔っているようだった。





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